古民家を活用したレストラン兼コミュニティスペースを運営。とめどない愛と活力で地域内外の人を「家族」にしてしまう『今泉富代さん』
今泉 富代/よりあい処 華
都路町
LOCAL COMMUNITY
田園風景が広がる福島県田村市都路町には、地元の人はもちろん、日本全国から人が集まる場所がある。2011年に起きた原発事故で、全町避難を余儀なくされた都路町を元気づけようと、2014年にオープンした「よりあい処 華」(以降、華)だ。その華を運営するのが、都路町で生まれ育った今泉富代さん。
地元食材を使用したランチの提供や、手芸教室を始めとしたイベントの開催、地元小中学生向けに郷土文化の継承や、都路訪問中の外国人、ボランティアの学生、視察に来た企業の受け入れなど、都路復興・活性のためなら労力を惜しまない富代さん。「都路のために」「来てくれる人のために」「子どもたちのために」いつも誰かのために動き続ける富代さんの生き方を探ってみた。
「人と違うこと」を恐れない先駆者
今泉富代さんが生まれ育ったのは、今では「よりあい処 華」として使われている築150年以上の古民家。農業と養蚕を営んでいた両親の元、5人兄弟の3番目として生まれた。
高校を卒業後は、都路町役場(現 田村市役所都路行政局)に就職。都路町役場「初」となる職場結婚を経験し、2人の子どもに恵まれた。こちらも当時ではめずらしく、出産後も勤務を続けるというパワフルぶり。
「自分が職場結婚をして以降は、数えきれない位、後輩たちの結婚の面倒を見てきましたね。みんなまとめて家に呼んで、2人になるチャンスを作ったりして」
都路町役場には33年務め、最後は課長職まで務めた。その間、公私ともにたくさんの人の面倒を見てきた富代さんは、今と全く変わるところがない。
都路町役場を退職後は、特別養護老人ホームで11年、施設長として働いた。まさに「キャリアウーマン」の富代さんだ。
人の愛情と優しさに救われた出産・育児
キャリアを極めた富代さんだが、出産・育児に関しては、万事順調、というわけではなかった。実は富代さんは、2人の子どもの前にもう1人、妊娠していた。しかし、残念ながら流産だった。次に生まれた兄 裕司さんには、障がいがあった。
「当時は障がいがあるとわかると、隠したがる人が多かったんですよ。だけど裕ちゃん(裕司さんの愛称)はとても社交的で、どこにでも行っちゃうんだね。だから私たちも色んなところに連れて行って、一緒に楽しい時間を過ごしました。1回も愚痴をこぼしているのを聞いたことがない子でした。『僕はサッカー選手になる』『社長になる』とよく夢を語っていましたね」
そう愛おしそうに語る富代さん。そんな裕司さんは、20歳になる1か月前、病気のために亡くなった。富代さんが今でもスカートばかりを好んではくのは、裕司さんが生前、「お母さんにズボンは似合わないよ。スカートがいいよ」と話していたためだ。
「大変なこともあったとは思うけど、色んな人に助けてもらって、愛情をいっぱいもらって、ここまでやってくることができたんですよね。だから、清司さん(富代さんのご主人)とも言うんです。『人には親切にしよう。困っている人には手を差し伸べよう』って。人に良くすると、それは必ず自分たちに返ってくるんです」
その想いがあるからこそ、今でも「よりあい処 華」での活動を続けている。
原発事故によって奪われた日常。「復興は、今も続いています」
務めていた特別養護老人ホームを退職した富代さん。「これからは自分の好きなことをやろう」そう思い、活動を始めた矢先だった。突如、大きな揺れが都路町を含む東北地方を襲った。2011年に起きた東日本大震災だ。地盤のしっかりしている都路町は、地震による被害はほとんどなかった。しかし、続いて起きた福島第一原子力発電所事故。この事故によって、富代さん始め、都路町の人たちの日常は一変した。
「地震翌日、まだ夜が明ける前から自衛隊の車列が海の方に列をなして走っていくんですよ。その振動で家まで揺れるんです。今でも忘れられません。何事だろう?と不安に駆られていました」
そして舞い込んだのが、「原発が危ないらしい。隣の大熊町の人たちが避難してくる」という情報だった。
早朝から大熊町の人の受け入れに向けて、都路の人はみんな布団を提供し、炊き出しなどを行った。
その日の夕方、都路町にも全町避難の指示が出された。
退職まであと数週間だった富代さんの旦那さんは、当時の都路行政局の局長であり、同居していた息子さんも市の職員。町のために奔走しており、家には富代さんとお嫁さん、お孫さんだけが残されていた。突然出された避難指示に戸惑いながら、取るものもそこそこに避難所へと向かった。
そこから都路町の家に戻れるまで、約3年。「避難者」「都路出身」というだけで、子どもたちは他の子から嫌がらせを受けることがあり、それは大人も同様だった。もちろん良くしてもらうこともたくさんあったが、両方を含めて、先のわからない長い時を過ごした。
「今、震災から時間が経って、都路町が被災地であるということが段々と忘れられているように思うことがあります。全町避難で辛い想いをした都路町の復興なくして、田村市の復興はあり得ないと思っています。だからこそ、この都路町を震災前、もしくはそれ以上に元気にしたいと思うんです」
震災がきっかけで立ち上がった「よりあい処 華」
ようやく都路町全域の避難指示解除が決まり、小中学校の再開も決まった。しかし、新たな問題に直面する。それは「みんなと会えなくなる」ということだ。
都路町民の多くが避難していた仮設住宅は、長屋のような作り。良くも悪くも壁一枚挟んだ隣には人がいた。そのため集まることも容易だった。一言呼びかければ、誰でも仮設住宅に設けられた集会所に歩いて集まることができたのだ。
富代さんは避難中、「みんなを元気づけるために自分にできることはないか」と考え、趣味の手芸を活かした手芸教室を、この集会所で定期的に開催していた。心が疲れていた参加者にとって、色鮮やかな手芸品、特に吊るし雛の制作は、癒しのひと時だった。
みんなが楽しみにしてくれていた教室が、都路町に戻ったとたん、開催できなくなる。「お年寄りや子どもが安心して来られて、ゆっくりできる場所がない」その大問題に、あきらめるのではなく、何とかしようと立ち向かうのが富代さん。「無いなら作ろうか」と、都路町で活動している田村市復興応援隊やボランティアの力を借りながら、使われていなかった富代さんの実家を「よりあい処 華」としてオープンした。
「名前は、みんなの気持ちが『華』やかになってほしいという想いから名付けました。構想からオープンまでたった2か月。色んな人の力添えのおかげで、無事にオープンすることができました」
都路に縁をもった人が帰る場所「第2の故郷」
現在も、富代さんの活動は留まることがない。華での地元食材を使ったランチの提供や手芸教室「みやびなの会」の活動はもちろん、地元の小中学生への郷土文化の伝承、イベントの開催や、視察やボランティアで都路を訪れる団体/個人の受け入れなど、頼まれれば受けられるものは全て引き受けてしまうのが富代さん。その他にも、地元の女性ボランティア団体「愛都路(めとろ)の会」、田村市の地域資源を活用した「田村市グリーンツーリズム」「田村市ご当地グルメプロジェクト」など、田村市活性化のために活動する団体に所属し、故郷を盛り上げている。
そんな富代さんを慕って、華には多くの人が、まるで「里帰り」のように集まってくる。震災後の支援を行っていた東京の企業ボランティアの方々は、今でも年に1回開催される都路町の祭りを手伝う時は、必ず富代さんの家に寄る。ゼミの一環で毎年3年生が訪れる東京の学生は、卒業後も各世代が各々富代さんの家にひょっこり顔を出す。一度都路に縁をもった人にとって、富代さんのいる華は、第2の故郷。彼らと一緒に撮った写真が、華の中にはたくさん貼られている。
「みんなが来てくれることがうれしいんですよ。『今日もおいしかったよ』『また来ますね』なんて言ってもらえると、華をやっていて良かったなって思うし、励みになるんだね」
富代さんから見た田村市都路町
震災前は別荘地として栄えた都路町。民泊の受け入れを積極的に行っていたこともあり、都路の人の多くは市外、県外の人との交流に慣れっ子だ。
「都路の人は、人を放っておかないんですよ。家に来れば『ごはん食ったかい?』なんて言って。人が良いのかな?」
「地元の都路小学校は『教育の現場は学校だけじゃない』と言い切る程、地域とのつながりが強いんです。だから地元の子どもたちは、道ですれ違った人にもちゃんと挨拶します。多世代での交流や、顔が見える関係という意味でも、都路町はとても良い町だと思います」
今日も「よりあい処 華」では、地元のお母さんたちがコタツを囲み、常連客は勝手知ったるといった様子で席に着く。初めてのお客さんが遠慮がちに「入ってもいいですか?」と扉を開けると、台所から顔を出した富代さんが笑顔で応える。「あら、こんにちは。どうぞ~。どちらからいらしたんですか?」
いつもと変わらない都路の、華の日常だ。
よりあい処華についてのお問合せ
住所:田村市都路町古道字新町67
TEL:080-8203-8787
ランチ営業:毎週月・水・金の11:00〜14:00頃