前代未聞!一時無人となった町で復興に挑んだ東京のサラリーマン。「支援の先」を考え立ち上げた団体が目指すのは「誰もが参加できる社会」『佐原禅さん』

佐原禅さん/NPO法人くらスタ 代表

田村市都路町

福島県田村市の中でもひと際豊かな自然が残っている都路町。人と自然が共生するこの美しい町は、2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故により、約2年間、町の一部から人の姿が消えた。

そんな都路町が再び立ち上がり、自らの力で復興に向かう様子を、ずっと近くで見つめてきた人物がいる。NPO法人くらスタ代表の佐原禅(ゆずる)さん。

元々は東京の民間警備会社でサラリーマンをしていた佐原さんは、震災後に意を決し転職、田村市へと移住した。都路町(原発から20km圏内)の避難指示が解除された直後に「田村市復興応援隊」として、都路町での復興の任務を負うことになった。

それから10年。

着々と変わるニーズに戸惑いながらも、前例のない震災復興に取り組んできた佐原さんを取材しました。

教師を目指した大学時代。まずは社会経験が必要と民間企業へ就職

北海道生まれ、首都圏育ちの佐原さん。子どもの頃から「世の中のために何かしたい」という気持ちが強く、小学校3年生の時に三宅島が噴火した時には、当時の全財産3,000円を握りしめ、母親と郵便局に寄付をしに行くような子どもだった。

大学では教員を志し社会科の教員免許を取得。しかし「社会科を教えるためには、自分が社会を知らなければ」そう思い、まずは一般企業で経験を積むことにした。

入社したのは民間の警備会社。

「1週間で辞めようと思ったね(笑)」

そう話す通り、仕事は肉体的にも精神的にもとても過酷なものだった。
現場での警備を始め、営業、製品開発、ロシア極東にある日本国総領事館での2年間の海外勤務など、楽しいことも辛いことも、学びも含めこの会社で様々な経験を積んだ。

入社して13年が経ち、今後の人生について考えようとしていた矢先のことだった。「東日本大震災」が発生した。

ボランティアチームに参加。休日返上で続けた災害復旧ボランティア

仕事柄、職場には予備自衛官(災害や有事の際の招集に応じ、自衛官として活動する人)として訓練を受けている人が多く、佐原さんもその1人だった。

震災直後、当然予備自衛官として招集がかかることを予想していたが、いつまで経っても連絡はこない。連日テレビで流れる震災の悲惨な状況に居ても立ってもいられなくなり、佐原さんは自ら予備自衛官のボランティアチームにコンタクトを取り、被災地支援へと向かうことにした。

この時参加したボランティアチームの大半が元本職の自衛官。災害支援のノウハウもあり、統率もしっかり取れていたため、現場では家畜の死体や瓦礫の撤去、現地でのニーズ調査など、佐原さんのチームは比較的大きな仕事を任された。

「震災直後の支援の方法はもちろん、自分の身の守り方やこれまでの自衛官としての経験を含めて、先輩たちからは本当に色々なことを教えてもらいました」

そんな信頼できる先輩や仲間との巡り合いもあり、被災地での復旧作業に没頭する日々が続いた。

月~金曜日は通常通り警備会社で勤務し、週末は被災地に駆けつけるという生活を送り1年程がたった。被災地の方から、家族が目の前で津波にのまれた話なども聞いた。地域の人の感情を傷つけないように、寄り添えるように。東京で働いていても、佐原さんの気持ちはいつも東北にあった。

物理的な被害はほぼなし。人影のなくなった町の復興活動

しばらくするとボランティア活動も落ち着き始め、日常生活が戻り始めていた。しかし、東北でのボランティア活動や、現地で出会った人たちのことがいつも佐原さんの頭の中に張り付いていた。

「東北で、誰かの役に立てる仕事はないのか」

そう思い情報を集めていたところ、目に入ったのが「田村市復興応援隊(以下、応援隊)」の求人だった。福島県原子力被災12市町村の1つである田村市で復興を担う仕事。

「これだ!」佐原さんは即応募、福島への移住を決めた。

佐原さんが着任した応援隊は、2013年に田村市都路町の一部に出ていた避難指示が解除されたことに合わせ、発足した。応援隊の都路リーダーとして、後に応援隊隊長として、主に地元の若者を中心に結成された応援隊を、以降佐原さんは率いていくことになる。

「応援隊の活動が始まったけど、行政からは『復興のために力を貸してくれ』と言われるばかり。最初は何をどうすればいいのか、まったく見えてこなかった。都路町は津波や地震による物理的な被害はほとんどなくて、被災12市町村の中でも最も避難指示の解除が早かったから、前例もない。本当に手探り状態でした」

とりあえず情報収集が必要だということで、最初に取り組んだのが都路町の全戸訪問。

3,000軒近くある家を1軒1軒回り、話を聞き、ニーズを探っていこうとした。が、当時は避難指示が解除されて間もない頃。ほとんどが留守の上、いきなり現れた応援隊という得体のしれない団体に不信感を抱き、お茶をかけられたり、罵声を浴びせられたり、不条理な要求をしてくる人もいた。

「心が折れる毎日だったよね。でもそこまでしても、応援隊として今後何をしていくべきか、その答えは見つからなかった」

「他にやるべきことがあるだろ!」のお叱りで気づいた自分たちの役割

そんな応援隊の活動に変化が現れたのが、その年の冬に起こった大雪の被害だ。普段はそこまで雪で生活が困ることのない都路町に、大雪が降った。ここぞとばかりに佐原さんを始めとした応援隊員は、スコップ片手に町の除雪に乗り出した。

「仕事が見つかったという安心感で、毎日毎日雪かきをやっていました。そうしたら、突然地域の人に怒られた。『おまえら他にやるべきことがあるだろ!』って。ハッとさせられた言葉でしたね」

生活の再建、風評被害の払拭、帰還の促進、コミュニティの再構築、都路町にはこれから乗り越えなければいけない課題が山ほどあった。そしてそれをサポートするのが応援隊の役割だ。

もちろん雪かきも無駄ではなかった。地域住民と一緒に汗を流すことで、「応援隊っていうのがいるらしい。色々手伝ってくれるらしい」と認知度が上がり、信頼関係を築くきっかけとなった。

その後は全戸訪問でのヒアリング内容や、その後の地域住民からの依頼を受け、イノシシ除けの電気柵の設置、小屋の解体、帰還住民のための家の片づけや草刈りなど、地域の人と共に汗を流した。

2か月ごとに変わる地域のニーズ。常に地域の人の言葉に耳を傾けて

「帰還直後というのは、ニーズの変化がものすごく早かった。『この間言っていたイベント、ボランティア含めて話しませんか?』『あぁ、あれはもういいよ。それより今はこういう場所作りたいんだ』っていう話になることも日常茶飯事。地域の人たちとこまめにコミュニケーションを取るというのが本当に重要だった。おかげで飲みニケーション(お酒を飲みながらのコミュニケーション)の機会も多かったですね(笑)」

町の人が「よりあい処を作りたい」と言えば、一緒に古民家の家財整理や開店準備を行う。「裏山に桜の木を植えて町のシンボルを作りたい」と言われれば、ボランティアを集めて一緒になって桜を植えた。

祭りの復活、高齢者の見守り、地域行事の手伝い、地域新聞の発行、県内外からの視察やボランティアの受け入れとコーディネート、しばらく後には、地元の学校で郷土愛を育む授業の提供や地域のキーマンとなる人の発掘・ネットワーク作りなど、この10年での応援隊の活動を挙げたらきりがない。

その活動は、地域の人の声から生まれ、地域内外の人と一緒に作り上げてきたものだ。

「今度こういうことやってみようかと思っているんだけど?」
「応援隊も手伝って」
「応援隊に相談してみ?」

応援隊には、都路の復興の種が集まってきた。

応援隊を通して田村市にやってきたボランティア、インターン、視察団は、この10年で約2,000人にのぼる

支援から自立へ。都路がずっと続いていくために必要だった「断る勇気」

佐原さんがしばしば口にする言葉がある。
「応援隊はずっとある団体ではないから」
応援隊は災害復興のために設立された団体。いずれ、活動には終わりが来る。

「応援隊がいなくなっても、都路町はずっと続いていく。だからこそ、応援隊が何かをやるときには必ず4つの指標を守るようにしています。

1.住民の主体性があるか
2.公共性があるか
3.費用対効果を期待できるか
4.終わりのイメージを持てているか

最初の頃は地域の人に嫌われるのが怖くて、それこそ個人宅の草刈りでも『喜んで!』と向かっていました。でも、それだと応援隊がいなくなったら続かない。そういう時は応援隊だけではなく、地区の人や、継続して関わってくれているボランティアの人を巻き込んで行う、もしくは時にはこの人は自分でやるだけの力があると思えば、支援を断ることも『必要な支援』と心を鬼にするように、少しずつ支援の在り方を変えていきました」

今の応援隊は1人1人の特性を最大限活かし、コミュニティースペースの運営や高齢者支援、ワークショップの開催などを手掛ける

応援隊の活動が終了した後を考えて立ち上げたまちづくり団体

2017年、佐原さんは当時の応援隊メンバー数人を引き連れ、新たにまちづくり団体「NPO法人くらスタ」を立ち上げた。当時田村市内に応援隊制度を受託できるような団体はなく、近隣の郡山市に所在があるNPO法人が応援隊を運営していた。しかし、地元に根付いたまちづくりや、応援隊の制度が終わった後も隊員が安心して働ける環境が必要だと考えた。

「名称は当時の応援隊員で案を出し合い、ぶどうの房を指す「クラスター」から名付けました。個々の活動(ぶどうの粒)が1つの塊(房)となって、田村市を作る、そんな想いがこめられています」

くらスタの目的は「誰もが参加できる社会の実現」。これまで10年に渡り都路の復興を見てきた佐原さんが出した1つの答えでもある。

「もし人口が400人しかいないのなら、その400人で運営できるまちづくりが必要ですよね。400人の1人1人に何かしら役割があって輝いている町、外から必要とされる町、人口は少なくても、地域の魅力があふれている町、そんな地域作りを目指して今は活動しています」

「都路は震災後ずっと与えられる存在だったけど、今は与える存在になっていると思うんです。未曽有の経験をしたからこそ、その被災・避難・復興ノウハウは世界中で絶対に活かされるべきだと思うし、助け合いの精神や高齢者の元気さ、よそ者でも暖かく受け入れる風土、他地域に誇れる都路の魅力はたくさんあります」

応援隊員との意見交換はキャンプ場で開催

移住に大切なのは「自分らしく生きられる場所かどうか」

都路町に移住してほぼ10年。今は地域住民から平屋住宅を借り、自然に囲まれた場所で暮らしている佐原さん。

休日には趣味の映画や読書、キャンプや料理作りを楽しむ。料理の腕は周囲も認めるところで、自宅で自ら寿司を握り客に振舞ったり、庭先で岩魚(いわな)の串焼きパーティーをやってみたりと、都路での生活を楽しんでいる。

「都路は『田舎のしがらみ』みたいなものはほとんどなく、程よい距離感が魅力かな。改善点としてあげるなら、飲み屋が少ないところ?(笑)あと季節になると嫌がらせかな?と思うほど玄関先にきゅうりやナス、白菜が山のように置かれているね(笑)」

「もちろん住んでいれば光の部分も影の部分も見えてくると思うけど、大事なのは『自分らしく生きられる場所かどうか』だと思う」

それは佐原さんが応援隊員にも求めるところ。だからこそ、応援隊では月に1日「自己探求の日」と称した何でも自由にやって良い日を設けているそうだ。

「一応条件としては『自分がワクワクすることをやる』だね。自分らしく生きている人、輝いている人が増えれば、都路町はこれからもっと元気になる」

「誰もが必要とされ、1人1人が輝く地域」佐原さんが進める理想のまちづくり。強面のマスクに隠された熱く、優しい想いが実った都路町を見るのがとても楽しみだ。

田村市復興応援隊

住所: 福島県田村市都路町古道字新町46
電話: 0247-61-5153
メール: tamura.ouentai@kra-sta.com
Facebook: https://www.facebook.com/tamurafukkou
Instagram: https://www.instagram.com/tamukochan/